税金・保険コラム

2009.06.03

生命保険の基礎知識(13)起こりうる予定外の事態(錯視、確率、ヒューリスティック)

先月、筆者が窓辺で育てているアマリリスが、一本の茎に3つの純白の花を咲かせました。アマリリスは姿が美しいだけでなく、甘やかな香りを漂わせるところが好きです。
アマリリスは頑丈ですね。まだ花を咲かせたことがない小さい球根のひとつに水を与えすぎて、根腐れさせてしまいそうになったことがあるのですが、水切れの状態にして放っておいたら、土が乾いてしばらくの後、生き返りました。ところで、この球根達は、もう10年位も前に通販で購入した球根から分岐したものです。

元々の球根は2年くらい咲いて、その後はすっかり花を咲かせることもなくなりました。そのかわりにせっせと子どもを増やしています。自分自身は買ったときより二回り以上も小さくなっているのですが、その分の養分を使っているのか、脇からあたらしい球根が次から次へと出てくるのです。今年花を咲かせたものを含めて6個も増やしました。

ある程度子ども球根が大きくなったら、堀り上げて他の鉢に植え替えるのですが、そろそろスペース的に限界です。なにしろ一つだった球根が7個に増えているのです。筆者は最初に買ったこの子だくさんの球根を、おっかさんと呼んでいます。

それにしても我がベランダの花は、ほとんど白いものばかりになってしまいました。晩年のオードリー・ヘップバーンは、意図して庭に白い花ばかり植えていたそうです。銀幕での彼女のイメージに似つかわしい話です。しかし、筆者の場合は、結果的にそうなっているだけです。よく強風の吹く地域で、乾燥しやすいこの場所の特性から、花の色と乾燥に強いという性質が同じ遺伝子に乗っているのかもしれないと思ったりしています。

前回に引き続いて、起こりうる予定外の事態・特にありがたくない事態について考えてみます。特に、データがない場合、どのように人は危機の起こる確率を見積もるかということについてです。不確定なことが将来に起こる確率をどう捉えるかによって、必要な保険金額をいくらと見積もるかが変わってくるからです。

一般に、人は、確率というものを直感的に捉えることが出来ないものです。確率というものは、数学的思考によって(理詰めで)考えなければならないものですが、多くの人はそうすることができません。確率は五感では捉えられないからです。

目で見てぱっと分かるのは長さや面積ですが、それもあまり正確ではないことが知られています。錯視と呼ばれるものです。
有名な錯視に次のようなものがあります。上下とも直線部分の長さは同じですが、下の方が上より長く見えるでしょう。

 

さらに、右の二つの机は同じ形なのですが、そうは見えないでしょう。

手に持って計る重さも、色によって惑わされることが知られています。
同じ大きさで同じ重さの箱も、白く塗った箱と黒く塗った箱とでは、黒い箱の方が重いように感じられるのです。

朝三暮四という故事がありますね。猿回しが猿にえさのトチの実を朝に3つ、暮れに4つ与えると言ったところ、猿が怒り出したので、朝に4つ暮れに3つやると言ったら、猿が喜んだというものです。日本では猿の愚かさに焦点を当てて、表面的な変化に惑わされて本質が変わらないことに気が付かない例えによく使われますが、本家の中国では、猿回しの賢さを称えるという意味合いで使われるそうです。いずれにせよ、人間にも猿とあまり変わらない点もあるのです。

確率に話しを戻します。一般にリンダ問題と言われるものがあります。これは、ある実験で、被験者は「リンダは31歳、独身で、非常に聡明、自分の意見を率直に口にします。彼女は差別や社会正義の問題に深く関心を持ち、反核デモにも参加していました。」という情報が与えられたのち、「彼女について、もっともありそうな選択肢を選んで下さい。」と、二者択一をするように求められます。「現在彼女は:1銀行の出納係である。2彼女は銀行の出納係であり、かつフェミニストである。」

確率的には、銀行の出納係である人が、なおかつフェミニストである確率の方が、銀行の出納係だけである確率よりも小さいのです。確率計算の数式を知らなくても、冷静に理詰めに考えればそうなるはずですが、9割の人が2を選ぶそうです。

ということは、多くの人が、課題を数学的に考えるより、経験則で考えていると言って良いのではないでしょうか。しかも、経験則と言っても、身近に彼女のような女性がいる確率はそれこそ小さいでしょうから、外から刷り込まれた先入観と言った方が良いでしょう。そしてこの先入観というものは、現代では、家族や近所の人といった身近な人から聞かされるよりも、テレビ、映画、小説で見聞きするストーリー、登場人物設定から取り入れているものの方が多いでしょう。

そして、そのストーリーや人物設定では、上映時間の制限からか、わずか2、3の性格設定や体験設定によって、単純に職業や行動特性が決められています。もし脚本が、登場人物自身が自らその運命を選びとっているという視点から書かれているとすれば、交流分析の人生脚本の実現ということになるので、それはそれで興味深いことですが、その話は別な機会に譲ります。

韓国流ドラマが揶揄されることがあるのは、一組の恋人たちにそんなに何種類もの不幸が降りかかるはずがないという直感的な不自然さを感じとるからでしょう。しかし、そのように感じる人でも、先の問題ではやはり2を選んでしまうそれこそ確率が高いと思われます。
また別な問いです。コイントス(コインを上に軽く放り上げ、落ちてきたとき上を向いているのがコインの表裏のどちらかを当てるゲーム)をしたとします。表が出たら○、裏が出たら×とした場合、次のどちらが起こりやすいと思いますか。

実は答えは「どちらも同じ」なのです。だいぶ前の回(2007年7月12日掲載)で「大数の法則」ということをお話ししましたが、それをもじって「少数の法則」とよばれます。数学的にはコインの表と裏が出る確率は同率ですが、実際に何百回、何千回とコイントスを続ければ現実にも同率になるというのが「大数の法則」です。しかし、わずか10回のトライアルでも大量のトライアルの場合と同じ結果が現れるはずだと錯覚してしまうのです。大数でこそ成り立つ事象が、縮小された場面でも縮尺したなりにそのまま成り立つと思いこむのは間違いですが、限られた時間内で能力を限定的に使うことで近似的に正しい解を得ようとすることを「ヒューリスティックス」と言います。コンピュータのように、客観的に明確で、抜けが無く具体的に定められているアルゴリズムに対するものとして使われます。

前回(2009年2月4日掲載)次のような式をお見せしました。

支出-主たる稼ぎ手の死後の遺族の収入-社会保障=保険金で賄う金額

当然の事ながら、この式が有効であるためには、公的社会保障に加入していなければなりません。読者の皆さんは、そんなことは当たり前のことだとお思いになることでしょう。

しかし、筆者が実際に社会保険事務所でお会いした女性は、問わず語りに以下のような話をされました。

「私は、何十年も昔に主人と2人で会社を作りました。社員はいなくて、夫婦2人だけの会社です。商品は、注文を受けると外注して作ってもらうのです。私たちは、国民年金にも厚生年金保険にも加入していませんでした。会社が依頼していた税理士に、『国民年金に入るより、個人年金に入った方がお得ですよ』と自分が代理店をしていた民間の保険会社の個人年金(死亡保障よりも老後の生活資金保障を目的とした保険の一種で、一定の年齢になったとき、保険金を何年間か受け取るもの)を勧められ、その個人年金に夫婦とも加入しました。
その後税理士を変えたとき、新しい税理士に、厚生年金保険に加入しなければならないことを指摘されましたが、やはり加入しませんでした(会社を経営している間に国民年金法や厚生年金保険法の改正があり、この会社は法人でしたので、このご夫婦は厚生年金保険に加入しなければならなくなっていたのですが)。

ところが、個人年金に加入していた生命保険会社が破綻し、私たちが受け取るはずだった年金は予定の半額以下になってしまいました。でも、国民年金も厚生年金保険も加入していなかったので、どうしたらよいのか、相談に来たのです。」

公的年金に加入義務があるにもかかわらず、加入して保険料を納付することをしなかった人たちが代わりに加入していた生命保険会社が破綻したのは、まるで罰が当たったような、勧善懲悪的な紙芝居のようですが、現実にそういう方は存在します。(もちろん、義務を果たさなかったから罰が当たった、わけではありません)

ゆったり家(2008年11月5日掲載)が、予定表をきちんと立ててから、保険を購入するとします。その時、どういう災難が起こったときのために購入するのかという目的をはっきり絞っていれば、我が家に起こりうる災難について、どの程度起こりやすいかによって保険で手当てすべき項目としてカウントするかどうかが決まります。

ただし、物事によっては確率がはっきりしていることもあります。ゆったり家の主婦が、自分自身が病気になった時のために保険を活用しようと考えたとしても、前立腺ガンにかかる可能性については、100パーセント無いと考えて良いわけです。同じく、ゆったり家の3人の男性が子宮ガンにかかる可能性についても、100パーセント無いと断言できるわけです。

余談ですが、色と遺伝子と言えば、三毛猫の雄には致死因子があるので、三毛猫は雌だけだと高校の生物学で習いました。ほかにも、毛色とある遺伝子がセットになっているために、一般に黒猫は、人なつこい性格をしているものだそうです。ネコの中には、飼い主にもさっぱりなつかない性格のものがいるそうですが。
エドガー・アラン・ポーの短編『黒猫』では、ラストシーンでネコが姿を現すとき、語り手のみならず読者もぞっとする演出が施されています。このシーンで、キジネコ(茶色の地に黒い縞)では映像的にいまいち迫力が足りませんし、黒猫は悪魔の使い魔であるという西洋でのイメージもあるので、ポーは黒猫としたのでしょう。しかし、黒猫が人なつこいということですと、あのシーンで黒猫があそこにいたのは理にかなっているということになるのかもしれません。ポー自身が黒猫を飼ったことがあったのでしょうか。

社会保険労務士
小野 路子
さいたま総合研究所人事研究会 所属
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