税金・保険コラム

2014.12.24

生命保険の歴史 その11

前回、高砂生命保険株式会社が大正時代に行った奇抜な募集案内に触れて、起策具足ということについて説明しました。在家(ざいけ・出家していない人)がこの世で幸福に暮らすために実践すべき4つの項目のうちの1つとして、ブッダが教えたものです。
「農民なら農民の、商人なら商人の、それぞれの立場での義務を元気に勤勉に果たしなさい。」
つまり、最近のベストセラーの言い回しを借りるならば、置かれた立場で咲きなさいということですね。
それも、いやいやながらではなく、元気よく。元気よくというのは明るく積極的にという事なのだと思います。

元気よくという部分が、気になります。フランスの哲学者にアランという人がいるのですが、「もし私が道徳論を書くことがあったら、上機嫌を義務の第1位に置くだろう」と言ったというのです。
ずっと昔に人から聞いて以来気になって、紙に書き出して壁に貼ってあります。

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また、V.E.フランクルの『夜と霧』のある箇所を読んだとき、唐突に徳川家康の言葉を連想しました。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」というものです。
これも遠い昔、子どもの頃に覚えたものですが、当時はなんという暗い人生観だろうとこちらまで暗い気分に囚われたものです。これしかないのかと。
しかし、フランクルを読んだ後で思うには、重い荷を背負って遠い道のりを行くのなら、目的達成のためにはペース配分を考えなければなりません。歩き始めで余力があるからといって、スキップしてはへばり、またスキップしてはへばるということを繰り返すよりも、淡々と一定のスピードで歩き続ける方が目的地にたどり着く確実性が高いでしょう。
特に暗い人生観というわけではなく、生きることに役立つ実際的な知恵を語っただけなのかもしれません。

洋の東西、時代を問わず、知恵のある人の言うことには共通点があるものだと今更ながらに思います。しかし、それと比べると起策具足の説明の後半部分が妙に覚えにくいのです。
「そうすれば財を蓄えることができ、それを、他人を助けることに使えます。逆に、真面目に働かなければ、他人を支援できる何ものも持てないので、善行を積んだり他人を支援したり出来ません。」
現実的にはその通りだと思います。大事な友人に借金を申し込まれてぜひ助けたいと思ったとしても、残念ながら、無い袖は振れないのです。もっとも、友人には金は貸すな、金はやるものだという教えも世の中にはありますが。

さてしかし、冊子のこの部分の理屈は、初めてものを売る立場に就いた人が感じる「売る事への抵抗」を取り払うための説得と論理構造がそっくり同じです。
高砂生命保険の営業部隊はこういう考え方をして、親鸞聖人の法要という厳粛な場で、宗教家の教えから生命保険の購入を導き出すような販売手段をとったのでしょうか。このようなことが気になる筆者は、そもそも喜捨とか善行からほど遠いのかもしれませんが。

しかし、高砂生命保険の冊子「御門徒として如何に立教開宗を記念すべきか」はさらに果敢に営業を続けます。
「自利利他一如(じりりたいちじょ)-それは仏教の大精神であって仏教徒の是非体現すべきものである-と前に言いましたが、保険は実によくこの仏教の精神を持っております。」と述べ、
「満期まで永らえた目出度い人が余計に掛けた掛け金を不幸に中途で死んだ人の方に回す」のだから、
「保険は知らず知らずに他人同士が助け合い、又不幸な人へは一種の慈善をなすもの」というようになって来て、
「貯金などとは比べようのない功徳が伴うことに」なるのだとかき口説きます。

ここでまた脱線しますと、自利は自分の利益、利他は他者の利益というのは簡単に了解されるのですが、実は利他には2種類あって、それが仏教世界を二分する重要なものなのだそうです。
ブッダ(悟りを開いた人)となる前の釈迦は、古代インドの小さな国の王子として生まれ、何一つ不自由のない子ども時代を過ごします。しかし、いかに身分が高くても老病死という苦からは避けられないと知り、妻子も国を統治する責任も放り出し、精神世界に救いを求めて城を出てしまいます。
そして何年もの厳しい修行の結果、悟りを開きブッダとなるのですが、その時点まで、ブッダは、自分の苦しみを解決することだけを考えて行動する自分勝手で自己中心的な人だったのです。
しかし、そこに梵天が天から降りてきて、皆の利益のためにあなたの体験を教示してくださいと頼み込みます。それでやっと布教活動を始めたのだそうです。このエピソードには梵天勧請という名前がついています。

さて、ブッダの考えでは、この世には人を救済してくれる摩訶不思議な絶対者などはいません。ですから、悟りへの道は自分がやったように各自で歩むしかありません。そのため、ブッダにできる利他は先輩として後輩を指導することでした。つまり、教育です。スリランカなどではこの上座仏教が今も生きています。
ところがブッダの死後数百年も経過すると、救済宗教の要素が混じり込みます。外部に超越的な力を持つ絶対者がいて、その者にすがれば不思議な力で救ってもらえるという考え方です。

一緒に利他の意味も変わっていきます。他者の苦痛を進んで引き受ける自己犠牲が伴わなければ利他ではない、単なる教育としての利他は偽物であるという考え方です。こちらが大乗仏教として日本に伝わりました。
普段意識することはあまりないかもしれませんが、自己犠牲とセットになっている利他という感覚は、日常生活の中にも顔をのぞかせることがあります。

以前身の上相談に載っていた話なのですが、若い奥さんが引っ越し先で、とある施設のボランティア活動に参加して、入居者の人気者になりました。すると、以前から活動している年上の主婦達が、あなたのボランティア活動は偽善だから辞めろと言い出したのだそうです。
偽善かどうかは心の中のことなので本人にしか分からないことです。それなのに他人が断定することの非論理性、また、ボランティア活動が入居者へ与える価値(本来の目的)よりも、活動者の行動理由を他人が詮索したあげく問題にする非実際的な態度。これらには、後からやってきて古参の自分たちよりも入居者の評価が高い若い妻なんて許さないといった嫉妬や狭量さが見え隠れしています。
ですが、それだけでなく、利他行為には自己犠牲がつきもののはずだ、楽しそうにボランティア活動をこなして人気者になるなんて間違っているという感覚的な判断があるように思います。

それに比べると高砂生命保険はおおらかです。
「人間の相互扶助ということは、近来喧しく言われることでもありますし、特に仏教精神の始まりでもある。」
「又、慈善事業ということは、~中略~非常に困難なことだと前に申しましたが、その慈善事業がもっとも正当に行えるのですから、実に保険には釈尊の同時、利行、布施等の社会生活の御教訓が最も簡易く最も完全に行えるという徳があります。」
と高らかに歌い上げます。

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「かくして家庭や社会が健全になるならば、国家への義務もこれより大なるはないといってもいいでしょう。」といかにも明治憲法下らしい国家観を見せながら大上段に振りかぶり、
「私はここに何より意義のある立教開宗の記念の意味で、この際、是非保険に加入になされることを希います。」と一気にクロージング(売り込みの最終段階、買ってくださいと言うこと)をかけるのです。

他にも「営業案内」が同封されていて、表紙には、五葉の松や帆掛け船の上に千鳥や扇形の抜き型が散らばり、型の中には「保険の器は幸福の峰に通ず」「保険を笑う者は災厄に泣く」などといった警句もどきがさらさらと筆文字で書かれています。

理詰めで説得したり、駄洒落のようなレベルの警句をキャッチコピーのように扱ったり、あの手この手で攻めてくる高砂生命保険株式会社のセールストークは、当時の信徒の目から見たら大変説得力があったように思えますが、どうでしょうか。

社会保険労務士
小野 路子
さいたま総合研究所人事研究会 所属
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