税金・保険コラム

2014.06.11

生命保険の歴史 その10

三井生命保険という生命保険会社があります。元々は高砂生命保険株式会社という名前で大正3年(1914年)に創業された、歴史のある会社です。今回は、高砂生命保険だった大正11年(1922年)に行われた募集案内についてお話しします。

大正11年4月に、真宗大谷派名古屋別院において親鸞聖人の御遠忌(ごおんき)が行われました。(遠忌(おんき)とは、50年に一度行われる法要のことです。)この時、高砂生命保険は次のような3点を配りました。「親鸞聖人のおしへ」「御門徒として如何に立教開宗を記念すべきか」「営業案内」です。

「親鸞聖人のおしへ」は大谷派本願寺名古屋別院が作成したもので、題名通り親鸞聖人の御遠忌の意義とその教えが説かれています。

「御門徒として如何に立教開宗を記念すべきか」は、46ページの小冊子で、高砂生命保険株式会社宣伝部編纂とあるのですが、題名からは生命保険との関係は見受けられません。実際、初めの部分は題名通りの内容なのですが、後半にいたっては、保険会社製の冊子らしく、保険の有用性について語られています。

「保険は家族の生活に対する保証なり」とあるのは、それがもともと生命保険という仕組みが作られた理由ですから当然ですが、なぜ加入すべきなのかという理由として「仏教徒だから」と述べているのが目を引きます。

話を進める前に、ここで少し説明をしておきましょう。ブッダが出家せず普通に暮らしている人に問われて、普通の人がこの世で幸福に暮らすために実践すべき項目について語っています。それは、次の4つです。
1)起策具足(きさくぐそく)
2)守護具足(しゅごぐそく)
3)善友交際(ぜんゆうこうさい)
4)等命(とうみょう)

1)は、農民なら農民の、商人なら商人の、それぞれの立場での義務を元気に勤勉に果たしなさいという意味です。そうやって行動すれば財を蓄えることができ、それを他人を助けることに使えます。逆に、真面目に働かなければ、他人を支援できる何ものも持てないので、善行を積んだり他人を支援したり出来ないという理由からです。

2)は、せっかく蓄えた財産を愚かなことで浪費することなく、維持しなさいという意味です。

3)は、寛容で賢い善人とのみつきあいなさいという意味です。なぜならば、私達はつきあう人と同じような人間になるからです。「朱に交われば赤くなる」ということですね。

4)は、中道の正しい生き方をするべきだという意味です。収入以上の消費やお布施をしたり、逆に欠乏しすぎる生活をしたりすべきではないのです。自分の収入を超えない暮らし方ならば、何か急なことが起こった時に使うことが出来る財産が残るからです。

かといって、財産を有効に使わずに溜めておくばかりでいなさいという意味ではありません。自分の庭でせっかくたわわに実った果実を食べずに、箱詰めして土に埋めてしまっては、後で食べようとしてもすっかり腐ってしまっています。良いものを持っていてもなんの利益も得られないのです。

ちなみに、筆者は、この果実のたとえを知って子供の頃を思い出しました。筆者の家では、農家である親戚の助けになればという意味もあり、冬になるとリンゴやミカンは箱単位で買っていました。今はもう見かけることもありませんが、リンゴはおがくずを詰めた木箱に入っていました。ミカンは既に段ボール箱に入っていたような記憶があります。

リンゴはともかく、ミカンは足が早く、積んであると下にある物からどんどん傷んでしまいます。青カビが生えてしまい、傷んだミカンに触れている他のミカンにもどんどんカビは広がってしまいます。毎日箱を覗いては、カビの生えたミカンを取り出し、傷んだ部分を取り除いて食べていました。傷んだ部分を取り除いても、やはり味は落ちているのですが、毎日毎日、カビに追いかけられるようにして、傷んだミカンを食べていました。

ずいぶん大きくなってから、はたと気がつきました。毎年このやり方をしていては、せっかく箱一杯のミカンを目の前にしていながら、傷んでいない美味しいミカンを口にすることはほとんど無いということに。そこで、家族に提案し、傷んだものと無事なものとを分け、美味しい物から先に食べることにしました。つまり、傷んだものを惜しむけちけちゲームを楽しむことは止めて、傷んだものについては断念し、本来の目的であったはずの「美味しいミカンを食べる」ことを楽しむという選択をしたのでした。

何千年も前にブッダが指摘していて、自分でも昔経験したのに、いまだに同じようなことをしている自分に気づきます。せっかく頂いたお土産を賞味期限切れになってから食べるとか、せっかく買った服を下ろさないうちに季節が過ぎてしまうとか。等命というブッダの知恵が守れず、愚かしいことを繰り返している筆者です。

しかし、高砂生命保険製の小冊子は、3)の守護具足を持ち出します。万一のことが一家の働き手に起こった時、釈尊のお勧めになった守護具足が出来ていなかったら、家族の生活は危機に陥るではないか、と。人間にとって家族ほど可愛いものは他にないのにもかかわらず、と。

また、こうも説きます。仏教徒として、老少不定(ろうしょうふじょう・常に年寄りから先に年齢の順に死ぬとは限らない。若い人でも年寄りより先に死ぬことはある。人の寿命がいつ尽きるかについては一定の法則があるわけではなく、予測できないという意味)ということを知らない人はいないはず。それなのに万一の備えが出来ていないのだとしたら、その人は仏教徒として本当に老少不定を理解しているとは言えない。また、本当に家族が可愛いのだとも言えませんよ、と。

そして、「本当に信心する者であれば必ず守護具足の準備をするはずであり、この用意があってこそ、可愛い妻子の生活が保証され、また見苦しく世間や国家の厄介にもならず、従って落ち着いて魂の問題、すなわち信心を味わう身になって、やがて一蓮托生(死後、極楽の同じ蓮の花の上に生まれ変わること)の楽しみも実現するもの」「だから信者としてはぜひともこの準備をしなくてはなりません」と続きます。

そして、なぜ貯金ではなくて保険なのかという理由として、貯金では簡単に引き出せてしまうからと言っています。保険の方は「責め立てられて加入し」「掛け金も追い詰められては渋々ながらに掛けていく」と、これは自分たち生命保険会社を皮肉っているかのようなずいぶんな言いようです。

とは言え、貯蓄の第一歩は強制的にするのが良いということは、現代のFP(ファイナンシャルプランナー)も良く言うことです。いわく、「貯金は金額を決めるのではなく、給料の一定割合を決め、普段の暮らしにすぐ現金を引き出して使う口座とは違う別口座を用意しておき、強制的に天引きしてそこに入れなさい。」「初めから無いものとして暮らし、間違っても、余ったら貯金しようなどというやり方は取らないことです」と。

さて、高砂生命の小冊子は、「いったん加入した上はいやでもかけねばならず」「中途で引き出したくても引き出せない」不自由さ故に、強制的に満期まで掛け金を払い続けることになる、途中で脱落してしまうことがないことを利点として挙げています。また、途中で死亡した場合、貯金ならばそこまでの金額と利息しか得られませんが、保険ならば約束した保険金がまとまって得られるのですから、守護具足という点で保険の方がずっと優れているという結論に至ります。

ここまでは、守護具足という仏教用語を除けば現代でも通じる説得ですが、ここからさらに別の論理で口説きます。

すなわち、「保険は社会に対する共同責任の表明」であり、かつ「慈善事業をも兼ねる最良の社会政策」と言い、仏教の精神と繋げています。この部分がまた興味深いのですが、説明が長くなりますので、次回に持ち越したいと思います。

社会保険労務士
小野 路子
さいたま総合研究所人事研究会 所属
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