税金・保険コラム

2013.01.23

生命保険の歴史 その5

現在は成熟型商品(商品がそれを必要とする顧客に行き渡り、新たに顧客を開拓する余地が小さくなった商品のこと。)となっている生命保険ですが、我が国での相互扶助制度の萌芽は遠く鎌倉時代に求められます。当時無尽と呼ばれた制度が、江戸時代には講という名前になり、講は第二次世界大戦後も続いていました。

しかし、これらは現代の近代的な生命保険とは性質が違います。近代的な生命保険とは、データに基づくことで死亡率と保険料と保険金とのバランスが取れ、事業が継続できる仕組みになっているものです。

近代的な生命保険に関する知識は、明治維新の1年前に福沢諭吉(1835年-1901年)によってもたらされました。

福沢諭吉は、今は1万円札の肖像画で知らない人はいませんが、以前の1万円札の肖像画、聖徳太子に比べて、何をした人か説明が難しい人物です。幕末から明治にかけて生きた人で、漢籍を修め、居合い術の免許皆伝で、オランダ語、英語に堪能で、鉄砲の設計図を引いたり、鉄砲を分解したりすることも出来ました。そして、もちろん、現在の慶應義塾大学を創立した人物でもあります。

福沢諭吉は、現在の大分県にあった藩に、儒学者でもある下級藩士の子として生まれました。長じては、藩に命ぜられて江戸幕府にお雇い(臨時職員)として出向し、得意のオランダ語と英語を生かして足かけ5年、主に公文書の翻訳者として勤めてついに幕府直参(直雇い)の御旗本になりました。

もちろん、それ以前に藩の江戸屋敷の中に開かれていた蘭学塾(後に学校法人慶應義塾の礎となる)の講師を務めたり、かの咸臨丸で(日米修好通商条約交換船の護衛艦)軍艦奉行のお供としてアメリカに行ったりしているわけですが。

明治維新の直前には老中からの要請を蹴って退身届を出して退官し、明治政府からも出仕を求められましたが、慶應義塾の経営と翻訳、著述活動を選びました。自分の眼鏡にかなう人間を次々と明治政府に送り出していった頃は、影響力も大きかったようです。

しかし、後には、薩長勢力である明治元勲との確執や、咸臨丸で一緒だった頃から仲が悪かったと言われる勝海舟に、塾生が減って経営難となった慶應義塾への資金援助を申し出て断られたりしています。とはいえ、精力的に新聞に寄稿し、何冊もの本を上梓し、時々ベストセラーも出し、海外の文物や科学や政治制度やらを紹介し、国民を教育しようとしました。さらには、男女同権論、自由民権運動への見解の変遷、国権論の主張、アジア解放運動、など、福沢の人生は複雑で多面性を持っています。

そんな福沢諭吉は、維新前にアメリカへ2度、ヨーロッパへ1度行っていますが、その時の経験を元に書いた本の1冊が『西洋旅案内』です。ちなみにこれはベストセラーになって、2匹目のどじょうがたくさん出されました。この本は、題名通り海外旅行をする際の手引き書で、船賃の払い方、途中立ち寄る港のことやら食事の仕方から洋式トイレの使い方までをも解説しています。

しかし、旅行と言っても観光旅行ではなく商用旅行のことなので、附録で商法と題して、積み荷受取状や商売船買い入れについて語っています。この中に、「災難請合の事」という章を立てています。さらに中は3つに分かれていて、「生涯請負」「火災請負」「海上請負」となっています。「生涯請負」とはlife insuranceの訳で、今で言う生命保険のことです。

福沢は、保険制度のことを次のように述べています。「災難請合(さいなんうけあい)とは、商人の組合ありて、平生(へいぜい)無事の時に人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば組合より大金を出(いだ)して其(その)損亡を救ふ仕法(しほう)なり。」

つまり、普段無事な時にお金を出し合っておき、万一災難のあった時にまとまった金額を拠出して災難の被害から救う方法だということです。

1881年(明治14年)には福沢の門下生が我が国初の生命保険会社を作りました。これが明治生命です。(現在の明治安田生命)だてに明治と名乗っていたのではないのですね。日本銀行の開業が1882年であることを考えると、やはり民間企業の方が、動きは素早いですね。ちなみに、この時使われた生命表は17会社表というものでした。

17会社表というのは、英国で1843年に発表された死亡表です。死亡表というのは、要は人口を性別年齢別に分けて、次の誕生日までにどのくらいの人数が死亡したかというデータをまとめたものです。これは生命保険会社の営業経験に基づいてまとめられたもので、日本の生命保険会社の創立時にはこぞってこれを用いました。

しかし、1889年にはもう藤沢市第1表が、1893年には矢野氏第1表という我が国独自の死亡表が発表されました。素早いですね。1899年には日本アクチュアリー協会が設立されました。現在も社団法人として活動が続いています。アクチュアリーとは、確率論・統計学などを用いて死亡率を解析し、毎月の支払額や掛金率をはじき出す数理の専門家のことです。英国で世界初の生命保険会社を作り損ねたジェームズ・ドドソンの末裔達と言ってよいでしょう。

1900年(明治33年)になって、やっと保険業法が公布・施行され、監督官庁も農商務省商工局保健課が作られて、保険行政が始まります。

社会保険労務士
小野 路子
さいたま総合研究所人事研究会 所属
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