税金・保険コラム

2011.12.07

生命保険の歴史 その1

我が国では、約8割の人が加入しているとも言われる生命保険(公益財団法人生命保険文化センター調べ)ですが、はたしていつ頃から生命保険というものがあったのでしょうか。

研究者によっていろいろな意見があり、かつては激しい論争もあったようです。制度の性質やその本質をどうとらえるか、また、それらが、どの程度現代の生命保険制度に似ているかの解釈が、学説によって異なっているからです。諸説ある中でも、最も古い起源と言われるのは、遠く、古代ローマ時代です。

古代ローマは紀元前から多民族・人種・宗教を抱える帝国だったようですが、西暦100年頃には相互扶助組織があったようです。西暦100年と言えば、日本では、弥生時代と言えばよいでしょうか。日本史の最新の研究では、以前の学説よりも縄文時代が延びたりしているようなので、なかなか表現に苦慮するところではあります。それはともかく、卑弥呼の時代より100年も前というと、その古さが実感できるのではないでしょうか。

この互助組織は「コレギア・テヌイオルム」と呼ばれていて、入会金を払った会員が死亡すると、遺族に弔慰金を支払ったそうです。学者の精密な見解はともあれ、この点だけをとらえれば、まさに生命保険ですね。

この制度も、貴族しか入れなかったという説もあれば、一般市民も入れる制度だったという説もあります。当時のローマには、寿命の推計に基づいて保険金額を定める法律があったそうです。この保険金額は、遺族の年齢に応じたものだったということですので、現代のライフプランニングの考え方と通じるものがあったのかもしれません。

ところで、遺族ではなく、本人の老後生活を守るための年金制度はさらに古く、紀元前200年くらいまで、さかのぼることができるそうです。逆に、損害保険の歴史となると比較的新しく、14世紀ごろの貿易商人が始めた冒険貸借取引からという説が有力のようです。なんとなく、人間にとって大事なものの順番のようで、興味深いですね。

冒険貸借取引は、船が無事に戻ってきたら、借りたお金に利息をつけて返すという取引で、初めは荷主等が金融業者等から航海の資金を調達するために使われました。その後、保障対象は、船そのもの、積み荷、船長、船員、乗客へと広がり、生命保険に似たものになったと言われます。様々な必要を、なるべくならひとつの契約で済ませたいという簡便さへの欲求も、現代と変わることのない、人の性格だと思われます。

ちなみに、様々な仕事の中でも身体的に大きな危険を伴う分野での互助制度が、そこで働く人達に必要な範囲をすべて網羅するという例は、日本でも見られました。それは船員保険です。今は制度が変わりましたが、かつてはオールインワンの保険制度でした。労災保険、健康保険、厚生年金、雇用保険という4つの社会保険制度すべての性格を持っていたのです。

さて、時代が下って中世となると、ヨーロッパでは商人や手工業者の同業者組合であるギルドが登場しました。ギルドは、厳しい徒弟制度によって高い技術をもった親方しか参加することが出来ないしくみで、製品の品質や規格を統制していました。同時に価格も統制していたため、商売の自由は制限されていました。そのかわりに、組合員の死亡の際は葬式代が支払われ、遺族の生活も組合が面倒をみました。組合員の生存中にも、病気などの場合は組合が助け、材料の購入など生活の様々な面でギルドのメンバーは互いに助け合いました。

この死亡保障の仕組みが、生命保険制度の始まりであるという説が強いようです。しかし、制度の対象はギルド内に限られているところが、現代の生命保険とは異なるところです。

17世紀中頃になると、英国では、耕すべき土地も無く資本も持たない労働者が都市に集まるようになります。教会や、英国独特の居酒屋であるパブの常連客たちは、仲間うちに死者が出るたびに、帽子を回して弔慰金を集めました。そのうちにあらかじめお金を集めて貯めておくようになったのです。この組織は、「友愛組合」と呼ばれました。これこそが生命保険の始まりだという意見もあります。

しかし、誕生間もない生命保険制度は、失敗を繰り返しました。発足当初の「友愛組合」は、年齢によって掛け金を変えることをせず、全員が同額の掛け金を負担したため、構成員が高齢になると資金不足になってしまうものが多かったと言います。しかし、徐々に近代的な制度を導入していき、生命保険会社に対する共済組合のような形で、2006年10月現在で「友愛組合」はまだ192残っています。

17世紀末になると、ロンドンに今もその威容を誇るセントポール寺院に勤めている牧師たちが、「香典前払い組合」を作りました。掛け金を積み立て、仲間の牧師が亡くなるとその遺族に香典を贈り合ったのです。しかし、掛け金が年齢にかかわらず一律で、受け取る金額も、掛け金をかけた年月に関係無く同額だったため、すぐに若い牧師たちから不満が出るようになりました。結局次々に参加者が抜けてしまったため、資金不足に陥って10年ほどで「香典前払い組合」は潰れてしまいました。

「香典前払い組合」が潰れてしまう少し前に、ロンドン中心部で地域住民が集って「孤児と未亡人の生活を保障する組合」という生命保険組合を作りました。職種と無関係に地域を基準としたこと、組合員の定員2,000人という規模の大きさが画期的でした。加入者からは入会金5シリングを取り、仲間が亡くなるつど、残った全員から5シリングを集め、遺族に500ポンド(10,000シリング)を払うという決まりでしたが、これも10年あまりで潰れてしまいました。

初めから定員を満たせなかったこと、新たな加入者が得られず、加入者が亡くなるたびに加入者が減ってしまったため、掛け金を上げざるを得なかったことが記録に残っています。

「孤児と未亡人の生活を保障する組合」が潰れる少し前に、ロンドンの別の地域で「アミカブル・ソサエティー」というものが作られました(アミカブルとは親愛なるという意味です)。今度は2,000人が集まりましたが、やはり、掛け金は年齢、健康状態に関係無く、一律年5ポンドでした。また、加入者の年齢は12歳以上55歳としました。しかも分配方法は、掛け金総額の6分の5をその年に亡くなった人の人数で割るというものでした(6分の1は積立金として残しました)。

しかし、当然のことながら、亡くなる人の人数は毎年均一というわけではありませんし、年度によって加入者の人数が違うので掛け金の総額も異なります。そのため、死亡保険金額は一律とはならず、遺族の中に不公平感が生まれました。また、保険金額は、「香典前払い組合」と同じく、掛け金を払った年数とは関係がなかったので、加入上限年齢に近くなってから駆け込みで加入する人もいました。そこで、後には加入者の年齢を上限45歳までに制限しています。

ちなみに、この「アミカブル・ソサエティー」は1866年(明治維新の2年前)に「ノーウィッチ・ユニオン」という組織と合併して、今も存続しています。

「友愛組合」や「アミカブル・ソサエティー」が採用していたのは、死者が出た時点の全加入者で負担するという制度でした。若い加入者がどんどん増えるわけではない場合、年月が経てば加入者の高齢化が進み、支払うべき保険金額が膨らむ一方で、残っている加入者の数が減っていきます。組合を創設した時に取り決めた保険金額を払うことが出来なくなって解散するか、掛け金を値上げするかしかなくなってしまいます。

そこでどうしたのかということは、次回、ご説明していきます。

社会保険労務士
小野 路子
さいたま総合研究所人事研究会 所属
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