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旅・レジャー

2008.08.14

東京にもあった「三十三間堂」 東京江東区・深川

今に名を残す「江戸の三十三間堂」

江戸の三十三間堂

「三十三間堂」。そう聞くと、あなたはどんな場所を思い浮かべるだろうか。多くの人は、平安時代後期に院政を行った後白河上皇が京都に創建した蓮華王院――かの有名な、「京都の三十三間堂」を思い浮かべるだろう。観音菩薩の変化身「三十三身」にもとづく"三十三"の柱間によって構成された、地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルもの長大な本堂、丈六の千手観音坐像、千体の観音立像など、多くの国宝や重要文化財を保有することで知られている。
また、本堂の軒下を南から北へ矢を射通させてその矢数を競う弓術「通し矢」も有名だ。「通し矢」は、武芸が推奨された江戸時代に大流行したが、実はこの「通し矢」そして「三十三間堂」が、東京の浅草にもあったことをご存知だろうか。その正体は、寛永19年に京都の三十三間堂を模して創建された「江戸三十三間堂」。江戸の富岡八幡宮の東側に並び、京と同じく数々の通し矢の記録が残された。その後、元禄11年には焼失、深川に再建後さらに安政の大地震で建物が崩壊するという憂き目を見ているが、今でも同じ深川の地に、三十三間堂跡の碑を見ることができる。
この「江戸の三十三間堂」が残るのは、現在の深川。富岡八幡宮の門前町として発達したこの界隈ならば、江戸から続く下町の空気も楽しめる。訪れた際は、ぶらりと立ち寄ってみてはいかがだろうか。

昔懐かし、仲町巡り

東京の代表的な下町のひとつである深川は、徳川家光の時代に富岡八幡宮の門前仲町として発展した。江戸の三大火に数えられる明暦の大火の後、地方から江戸へ運び込まれる建材を集積する場所として木場が商業地域となってからは、その木場を舞台として働く商人が集う花街としても大いに栄えた。江戸の辰巳の方角にあることから、深川の芸者たちは辰巳芸者と呼ばれ、粋な男っぽい話し方や衣装、"芸は売っても色は売らない"という姿勢が高く評価されていたのである。
また一方で、深川は、日本人なら誰もが知っている偉人とも深いかかわりを持つ町だ。南総里見八犬伝の作者である曲亭馬琴は深川の生まれであるし、発明家や医者などいくつもの肩書きを持つ平賀源内、精度の高い日本地図を完成させた伊能忠敬、そして旅に生きた俳人・松尾芭蕉なども、深川に居を構えていた。次はそうそうたる歴史人をも惹きつけてやまなかったこの深川で、もっと身近に下町の良さを感じてみよう。

「深川」の名を巡るなら

深川を散策するなら、「深川」の名を冠する、こんなところに訪れてみるのがおすすめだ。江東区白河にある「深川江戸資料館」では、江戸時代の深川佐賀町の町並みを再現した展示室を並べ、往時の長屋、舟宿、火の見櫓等の建築物を再現している。まるで当時の庶民生活をのぞいているように感じられるのは、部屋の中の小物までも逐一再現しているからだ。完成度が高い展示で、まるでその時代に溶け込んだかのような気分に浸ることができる。さらに、食からも深川を楽しむなら、「深川めし」もはずせない。深川めしとは、深川の漁師たちが食べていた食事――とれたてのアサリとあり合わせの野菜などを味噌で煮てご飯の上にかけたもの――が始まりだとされている。アサリの旨みを存分に楽しめる「深川めし」は今でも人気で、深川で食べられる店がいくつもあるほか、駅弁にもなっている。散策途中の食事でも良し、弁当を買って土産にするも良し。ぜひ立ち寄って、当時から続く味を楽しんでもらいたい。

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