趣味・教養

2008.11.26
鍛えられた肉体がぶつかる、迫力満点の相撲。日本の国技ともなっている相撲は、江戸時代の浮世絵師たちにとって格好の題材でした。その相撲を浮世絵に描いた、いわゆる「相撲絵」は、テレビや雑誌のなかった当時、地方の人々へその息吹を伝える重要な情報源だったのです。今回は、当代の絵師によって描かれた、「相撲絵」の数々をご紹介しましょう。
歴代横綱で最も身長の低い横綱(五尺四寸:約164センチ)という、第9代横綱秀ノ山雷五郎(1808-1862)。陸前国(宮城県気仙沼市)出身の秀ノ山雷五郎は、小柄という理由で入門当時は雑用ばかり言いつけられ、稽古もつけてもらえなかったそうです。しかし、持ち前の負けん気で稽古を重ね、入門から19年を経た弘化4年、39歳で横綱となりました。彼を描いた歌川国定は、初代豊国の門人(後の三代目豊国)。迫力あふれる役者絵、粋な美人画など、あらゆる分野に筆を振るった絵師。その筆致からは、土俵上での緊張した空気が伝わってくるようです。
歌川広重の「名所江戸百景」に描かれた「両国回向院元柳橋」(りょうごくえこういんもとやなぎばし)。明暦の大火(1657年、通称:振袖火事)の犠牲者を弔う塚を発祥とする寺院「両国回向院」は、1781年以降、境内で年2回の勧進相撲が行われるようになり、それが大相撲の起源となりました。ここでは、檜の丸太を縄で組んだ16mもの高さのやぐらがそびえ、呼び出しさんによる朝夕の太鼓の音があたりに響き渡り、地域の人々へ興行を知らせていました。隅田川に近い回向院のやぐら太鼓の音は、川の水面に反響し、風に乗って遠くまで響き渡ったと言われています。
作者の歌川広重は、安藤広重という名でも知られ、「名所江戸百景」「東海道五十三次」ほか風景画に高い評価があります。
東方・第五代横綱小野川三郎(1758-1806 右)と西方・第四代横綱谷風梶之助(1750-1795左)の、華麗な土俵入りを描く一枚。第一代から第三代までの横綱は、伝説上の人物と思われ、生没年や勝敗などに不明な点も多く、1791年に同時に横綱の免許を受けた、四代谷風、五代小野川が実質的な初代横綱と言われています。勝川 春章は宮川春水に学び、弟子には葛飾北斎がいます。写実的な役者似顔絵を完成させ、江戸時代の大衆に人気を博しました。現代で言うブロマイドのような価値を持つ彼の細密な美人画は賞賛の的となり、肉筆美人画「雪月花図」(MOA美術館蔵)などが有名です。
圧倒的な強さを誇ったと言われる力士、雷電爲右エ門(1767-1825)。彼は幕内35場所中254勝10敗21分、連続優勝7回という無敵の大関であり、最強力士とも謳われました。そのあまりの強さに、現役時代「つっぱり」「張り手」「サバ折り」などを禁じ手にされたと言います。その相手に描かれた陣幕鴻之助(初代押尾川巻右衛門。1771-1809) もまた、最高位大関。1791年に、時の将軍家斉の観戦する上覧相撲で雷電に勝ち、一気に名を上げました。勝川春章に師事した勝川春英は、相撲絵のほか役者絵も得意とし、寛政文化期の相撲絵を数多く残した、相撲錦絵史上最大の功労者です。
原画となった錦絵は、第六代横綱阿武松緑之助(1794-1852)と第七代横綱稲妻雷五郎(1802-1877)、そして行事の八代目木村庄之助が描かれた3枚組ですが、切手デザインには、阿武松と行司の部分が採用されました。阿武松は、相撲の黄金時代を築いた谷風・小野川以来、30年ぶりに誕生した横綱として、当時の相撲ファンの期待を一身に集めたヒーローでした。作者の歌川国貞は普段は面長猪首型の美人画が得意で、存命中に三代目歌川豊国を襲名後、大量の作品を世に送り出しました。現在でも、発表した作品の数が最も多い浮世絵師として知られています。
力士はいつも英雄であり、子どもたちの人気の的。当時から遊びにも取り入れられ、元気いっぱいの子どもが相撲を取るさまはとても愛らしく、その姿が相撲絵にも数多く残っています。この作品の作者喜多川歌麿は、繊細で表情豊かな美人画の大家として、国際的にも知られる浮世絵師です。現在の埼玉県川越市出身で、全身を描くのが一般的であった美人画に、表情を際立たせる顔を中心とした、独特の構図を考案しました。作品に登場する遊女、花魁、茶屋の娘など市井の一般女性たちは、歌麿によって有名になり、今で言うアイドルのようにもてはやされたそうです。
土俵上の様子を描かれることの多い力士たちが、色とりどりの着物をまとい、いっせいに橋の上に立つ、珍しい構図の一枚です。人々の憧れであった立派な体躯だけでなく、そこはかとなくかもし出す品格を持ち、江戸時代は女性の見物すら禁止されていた、相撲という神聖な場に生きるスターたちを集めたこの錦絵は、「当時英雄取組の図」と同じ歌川国貞の作品で、現在は岐阜県博物館に所蔵されています。
勧進大相撲弓取の図は、元は3枚1組の錦絵で、元治2年(1865)に行われた春場所の弓取りを描いた作品です。弓取式は、平安時代に行われていた宮中の相撲節会では、東西に分かれて相撲を取った勝者が、舞楽にあわせ矢を地面に立てる「かずさし舞い」が、起源と言われています。力士として初めて弓取りを行ったのは、大四代横綱の谷風で、上覧相撲で小野川を破った際に、弓を振ったという記録が残っています。1952年の初場所からは、毎日最終の取組が終わった後に弓取式を行うのが、恒例となりました。
作品に描かれる岩見潟丈右衛門、実は第1集秀ノ山雷五郎と同一人物です。そして相手方の最高位大関である武隈文右エ門(1798-1858)。商人から力士へ転向したという、変り種。武隈は、1798年、現在の滋賀県東近江市に生まれ、江戸へ出て雷権太夫に入門。1836年に阿武松引退を受け、大関に昇進したものの、5年後の1841年冬場所には関脇に降格。1845年に引退するまで、関脇の座に留まったままだったそうです。
役者絵で有名な東洲斎写楽が好んで描いた、大童山文五郎(1788-1822)。彼は7歳にして、身長が120cm、体重71kgだったと言われ、怪童力士として1人土俵入りを披露しました。土俵入りと言っても余興で行われたもので、この年齢時、実際に相撲を取ったことはないそうです。ちなみに大童山は、2歳のときには、すでに身長115cm 体重33kgもあったそうですから、その成長には目を見張るものがありますね。大人になり、正式に力士となった後も、あまり活躍することなく引退。廃業後は下谷の広徳寺前で、もぐさや手拭いを売って生活をしていたそうです。
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