趣味・教養

2008.10.22
芸術の秋にふさわしい音楽といえば、なんといってもクラシックですね。コンサートに足を運んだりCDで楽しんだりするだけでなく、映画やテレビコマーシャルのBGMとしても、数多く使われているクラシックの曲たち。そんな、現代にも親しまれる数々の曲を世に出した大作曲家の肖像を、切手で楽しんでみませんか。
「美しく青きドナウ」などで有名な「ウィンナワルツ」。19世紀のウィーンで流行し、ヨーロッパ中に広まった3拍子のこのウィンナワルツの作曲家として世界中で知られているのが、ヨハン・シュトラウス親子です。
父と子、それぞれがウィンナワルツの名曲を残し、特に息子は「ウィンナワルツの王」とまで呼ばれました。「皇帝円舞曲」など、現在みなさんがよく耳にする、"ヨハン・シュトラウス"のウィンナワルツのほとんどは、息子であるヨハン・シュトラウス2世の作品なのです。
父親であるヨハン・シュトラウス1世の方は、1804年ウィーンの生まれ。同じくオーストリアの作曲家で「ウィンナワルツの始祖」と呼ばれるヨーゼフ・ランナーの楽団で腕を磨き、その後自分自身でも管弦楽団を結成。1849年に亡くなるまで、宮廷音楽家として活躍しました。
そして、息子のヨハン・シュトラウス2世は、父譲りの豊かな音楽の才能を持っていたにもかかわらず、意外なことに父1世から音楽の道に進むことを反対され、大学では経済を学んだそうです。その後、音楽への夢を捨てきれず父から独立し、自らの管弦楽団を作って活動。父の存命中は、ライバル関係であったという、皮肉な歴史が残っています。
切手は、ヨハン・シュトラウス1世の没後150年である1999年に発行されたもので、子(S7)父(S8)の肖像画が並んでいますが、この複雑な親子関係を知るにつれ、二人の視線がまったく逆方向を見ていることも、興味深いデザインに見えてきます。

フィンランド「シベリウス追悼」
発行日:1957年8月
交響詩「フィンランディア」をはじめ、多くの交響詩、交響曲、器楽曲、劇音楽の作曲家として名を成したジャン・シベリウス。1865年にフィンランドで生まれたシベリウスは、一時期ヴァイオリニストを目指していました。ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始めたのは、20歳のとき。1889年にはベルリンに留学します。その後は1891年の「クッレルヴォ交響曲」ほか、大規模で民族心あふれる曲を精力的に発表し続けました。
代表作である「フィンランディア」は、元々「愛国記念劇」の音楽のひとつとして作られた曲で、翌年その7曲目を独立・改題したものです。愛国心を想起させるこのタイトルだったために、当時支配下にあったロシアの弾圧を受け、別名で演奏されたこともあるそうです。
彼の曲は後年、思想的な作品からフィンランドの美しい自然にインスピレーションを受けた作品へと変化していきました。1957年没と長寿を全うしたシベリウスですが、60代半ば以降は内省的な生活に入り、ほとんど作品を発表していません。切手は彼の亡くなった年に、追悼の意味を持って発行された一枚となっています。
「ハンガリー舞曲」の作曲者として知られ、ピアニスト、指揮者としても活躍したドイツ音楽の巨人、ヨハネス・ブラームス。1833年ハンブルグに生まれたブラームスは、子どものころからピアノの名手として知られ、青年期にはレストランや居酒屋などで演奏しつつ、家計を支えていたそうです。
しかし、その生活は1862年に変化を迎えます。音楽の都・ウィーンへ移住してから、ブラームスは演奏ではなく作曲活動に集中する生活をはじめました。その作曲スタイルは、当初古典派の色合いが濃く、次第にロマン派に類される様式へと変化してゆき、近代音楽への過渡期を支えた作曲家として、後進にも多大な影響を与えました。同時代で親交のあった多くの作曲家の中には、リストやシューマン、ブルックナー、前述のヨハン・シュトラウス2世などがおり、中でもヨハン・シュトラウス2世とは親しく行き来していたそうです。また、シューマンの妻クララとは、シューマンの死後にロマンスがあったともいわれています。
管弦楽、室内楽、器楽、声楽ほかたくさんの楽器のために曲を作ったブラームスですが、その生涯の中で、歌劇を書くことはありませんでした。1983年、生誕150年を記念して発行された切手には、ブラームスの肖像と、自ら歌詞をつけたアルペンホルンの名曲がデザインされています。
ドイツの誇る作曲家であり、オペラ「魔弾の射手」やピアノ曲「舞踏への勧誘」など、心に残る美しい旋律で有名なカール・マリア・フォン・ウェーバー。彼の父フランツ・ウェーバーの兄であるフリードリンの娘は、モーツァルトの妻となったコンスタンツェ。実はウェーバーとモーツァルトは、従兄弟の関係だったのです。
父が主宰する劇団の旅公演に同行しつつ、行く先々で特別な音楽教育を受けたウェーバーは、才能をめきめきと伸ばし、頭角を現しました。プラハ歌劇場や、ザクセン宮廷の楽長としてドレスデン歌劇場の芸術監督などを歴任し、自身の作曲したオペラを中心とする公演で、ドイツ・オペラの振興に尽力するとともに、ヨーロッパ最高のピアニストとしての名声を欲しいままにします。
華やかな成功を誇ったウェーバーでしたが、没年は1826年、結核を押して行ったロンドン公演の後、故国に帰ることなく同地で亡くなっています。その死から18年を経て、ワーグナーの力添えで、ウェーバーの遺骨が故国・ドイツへと帰国しました。
生誕200年記念の切手は、ウェーバーと名作「魔弾の射手」の登場人物がデザインされた、印象深い一枚となっています。