趣味・教養

2008.06.19
2回シリーズにわたって、切手に描かれた日本の名城をご紹介します。まずは東北から東海までの「東国編」をお楽しみください。
いずれも「日本の名城百選」に名を連ねた美城ぞろい。
絵柄に選ばれたそれぞれの城の見どころや、歴史にまつわるエピソードをご紹介します。
この夏の遠出プランの候補に「名城探訪」を加えたくなるかもしれませんよ。
古くは黒川城と呼ばれていたこの城は、南北朝末期に蘆名(あしな)直盛が築城したもの。天正十七年(1589年)に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし入城しましたが、豊臣秀吉が奥州仕置きによって没収。代わって蒲生氏郷(がもう・うじさと)が入封し、「若松城」と名を改めます。
文禄二年(1593年)に七層の天守閣を完成させますが、江戸初期の地震で大破したため、右の切手に描かれたような五層五階の姿に改築されました。
この城を有名にしたのは、戊辰戦争の折、傷を負って落ち延びた飯盛山から会津若松の市街を臨み、周辺の武家屋敷が燃えているのを「若松城が落城した」と見誤って「もはや帰る場所もない」と自刃した若き白虎隊の悲劇です。彼らの墓が祀られた飯盛山には今も年間200万人を越える観光客が訪れ、早すぎる死を悼む香煙が絶えません。
ちなみに会津若松城は別名「鶴ヶ城」と呼ばれ、地元ではこちらの名称のほうが一般的なようです。
景観の美しさを誇るのは松本城。右の切手に描かれているように、北アルプスの常念岳をバックに佇む姿は圧巻です。また天守前の堀幅が広いため、五重六階の天守が水面に映る様子にも風情があります。江戸時代以前に建築された天守がそのまま現在まで残っている「現存12天守」のひとつで、国宝に指定されています。
小笠原氏により築城され、後に武田信玄の信濃の拠点となりましたが、天正18年(1590年)には秀吉の有力武将・石川数正が入城。秀吉の威光を世にあらわすため天守(天守・乾小天守{いぬいこてんしゅ}・渡櫓{わたりやぐら})と御殿、門、櫓、塀や城下町が整備されました。
箱根外輪山の山麓に築かれた小田原城は、室町時代末期に北条早雲の手に落ち、後北条氏(鎌倉幕府の執権北条氏と区別するためにこう呼ばれます)五代約百年間に渡る支配の本拠地となりました。上杉謙信、武田信玄の攻撃を退けるなど、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇りましたが、天正18年(1590年)に秀吉の21万の軍に攻囲され、3ヶ月の籠城の末に降伏・開城します。
このとき、後北条氏の戦意を喪失させたと言われるのが、秀吉の築いた石垣山一夜城。小田原城の西3kmの山頂に小田原城からは見えないように築城させ、完成後周囲の木々を切り払ってあたかも一夜のうちに築いたように見せたというものです。(実際には、4万人近い動員をし、80日間で完成させました。)
現在の天守閣は昭和35年に復興されたもの。現在の小田原城址公園は、梅、桜、菖蒲、藤、あじさい、蓮、菊……と折々の花が咲き乱れる花の名所となり、一年中多くの人が訪れます。
歴代の城主の中で特に名高いのが藤堂高虎(とうどう・たかとら)。城主を任じられた際に「天下の名城を築いてみせる」と豪語し、伊賀忍者を58ヶ国148城に忍ばせて要害図を盗写させたという逸話が伝えられています。事の真偽は知るよしもありませんが、当時高虎はすでに宇和島城や今治城を築き、江戸城の普請にも関わった経験をもつ築城の名手でしたから、彼の謎めいた人柄が生んだエピソードなのかもしれません。
最大の見どころは、右の切手にも描かれるそびえ立つような高石垣。高さ30mもあり、この上から内堀を見下ろすと身がすくむような思いがするそう。黒沢明監督が、映画「影武者」のクライマックスのロケ地に選んだ場所でもあります。
伊賀上野は松尾芭蕉の生誕地としても知られ、生家や句集の執筆に使われた小さな庵が大切に残されています。芭蕉翁の旅姿を模した「俳聖殿」の前では毎年10月12日(芭蕉の逝去日)上野市主催の芭蕉祭が行われます。
日本[心におみやげ、見つけて小田原]
「いつになってもまとまらない会議や相談」「不毛な議論」といった意味合いで用いられる「小田原評定」という言葉。実は先ほどご紹介した小田原城落城にまつわるエピソードが語源になっているのです。
もともとは後北条氏が月2回行っていた重臣会議(当時としては画期的な制度であり、家臣の裏切りが皆無に近い後北条氏の強さの源でした)をこう呼ぶのですが、秀吉の侵攻に対して籠城と野戦とに主張が真っ二つに分かれ、この論争が長く続いた割に実がなく、結果として籠城を選んだことも裏目に出て、小田原城は秀吉の手に落ちるのです。