ポスタルくらぶ

  • 文字サイズを「小」にする
  • 文字サイズを「中」にする
  • 文字サイズを「大」にする
  • はじめての方へ
  • 会員メニュー


趣味・教養

切手~小さな四角の世界~

2007.10.04

フランスの美術切手 ~第一回・印象派編~

1961年から2007年現在までフランスで毎年発行されている「フランス美術切手」は、多色凹版印刷による深い味わいや、絵画をより楽しめる大型 サイズなど、まさに切手そのものが芸術品と呼ぶにふさわしい作品。今回は「フランス美術切手」シリーズとともに、世界中で発行された美術切手のなかから、 日本人にもなじみの深い印象派絵画の切手をピックアップしました。

フランスで生まれた印象派主義

フランスで生まれ全世界に広がり、絵画のみならず芸術・文化に大きな影響をもたらした印象派。印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感に重 きを置いていることや、それまでの絵画と比べて全体が明るい色彩に覆われていることです。また、当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々 しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴です。

カミーユ・ピサロ(CAMILLE PISSARRO)
1830-1903

フランス[ピサロ「キャベツ畑の小径」]
1981年4月21日発行

印象派の画家というとモネやルノワールが有名ですが、ピサロの名前は知らないという人が多いかもしれません。後世に華々しく名前を残した印象派の画 家たちのなかでも、ピサロはかなり地味な存在。確かに彼は印象派の代表的人物とは言えないものの、仲間たちにはなくてはならないリーダーでした。

1830年生まれのピサロは、他のメンバーよりほぼ10歳年上。それに加え、飾らない性格と温和で包容力がある人間性で仲間から慕われ、画家たちの交流の中心となったのです。

モナコ[ピサロ「隣村の入口」]
1974年11月12日発行

生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえも、ピサロを師と仰いでいたほど。ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励まし、新印象主義 のシーラやシニャックたちを仲間に入れるのにも仲介役を果したピサロ。彼はまさに、印象派以後の次の世代へ橋渡しをするという、歴史的に重要な役割を果し たのです。

クロード・モネ(CLAUDE MONET)
1840-1926

アンティグア・バーブーダ
[モネの絵画小型シート]
2001年7月3日発行

印象派を代表する画家、モネ。そもそも印象派という名前は1874年にモネ、ルノワール、セザンヌ、エドガー・ドガ、ピサロ、シスレーらが開いた第 1回印象派展(後にそう呼ばれる)でモネが発表した『印象・日の出 Impressions: soleil levant』に由来します。

彼の代表作といえば、やはり『睡蓮』の連作でしょう。“光の画家”と呼ばれたモネは、光によってさまざまに表情を変える自然に感心をもち、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作しています。

フランス[モネ「睡蓮」]
1999年5月29日発行

そのなかでももっとも多く描いたのが『睡蓮』で、1899年から1926年の亡くなるまでの間に、200点以上の作品を残しました。初期の『睡蓮』 は、岸の柳や池に架かる橋などが描かれていましたが、晩年は白内障を患い視力を失っていたため、抽象的な作風に近づいています。

ピエール=オーギュスト・ルノワール(PIERRE-AUGUSTE RENOIR)
1841-1919

フランス[ルノワール誕生150年「ブランコ」]
1991年2月23日発行

ルノワールは日本でも人気のある画家。アートに興味がない人でも、一度はその作品を見たことがあるのでは? 彼は他の印象派の画家とは違い、風景画 よりも人物を描くことを好み、少女や裸婦の絵を数多く残しました。彼の描く人物は、やわらかな光をまとい、その多くが幸福そうにほほえんでいます。印象派 の画家は、当初なかなか世間に受け入れられず苦しんでいましたが、ルノワールの絵は好評でブルジョワたちから肖像画の発注がくるようになったため、比較的 収入に恵まれていたと言われています。

ルノワールは、その生涯で大きく画風を変えたことでも有名です。1880年代前半頃から、光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持 ち、その後のイタリア旅行でラファエロらの古典に触れ影響を受けました。1883年頃からは新古典派の巨匠アングルに傾倒し、明快な形態、硬い輪郭線、冷 たい色調が顕著に。そして1890年代に入ると、豊満なヌードを数多く描くようになり、再び本来の暖かい色調が戻ってきます。

コンゴ共和国[ルノワール「麦わら帽子の少女」]
1974年12月15日発行

家族や友人に恵まれ幸せな生活を送っていたルノワールですが、リューマチ性疾患に悩まされ、晩年は車椅子生活を余儀なくされました。死の直前まで、 痛みに耐えながら精力的に制作を続けたそうですが、残された作品はそんな苦しみをみじんも感じさせないほど美しく輝いています。「芸術が愛らしいもので あってなぜいけないんだ? 世の中は不愉快なことだらけじゃないか」といったルノワール。彼のこの言葉に、ひたすら人生の明るい側面にフォーカスしたルノ ワールの姿勢が要約されているのかもしれません。

切手トリビア ~印象派編~ マネはモネと勘違いされ、絶賛されたことがある?

エドゥワール・マネ(1832-1883)は、『草上の昼餐』などで後世の画家たちに多大な影響を与えた巨匠。マネとモネ、よく似た名前のうえに同 時代に活躍しただけに、混同してしまう人も多いのでは? 実際はふたりが活躍していた当時も、モネとマネはよく間違えられていたのです。

ソマリア[オルセー美術館の絵画(2次)小型シート]
2002年12月20日発行

1866年、マネは自分の絵を応募した展覧会を訪れました。展覧会に来ていた人たちがマネの絵を褒めたたえたことに気をよくし自分の絵の前に行くと、なんとそこに飾られていたのはモネの『緑衣の女』でした。

コンゴ共和国[モネ「アルジャンタイユのヨットレース」]
1974年12月15日発行

マネ自身の絵は落選し、マネとモネのスペルが似ているために、モネの絵がマネの名前で展示されていたのです。マネは立腹し、翌日友人がモネを紹介しようとしても断固拒否しました。しかし、それから3年後マネはモネと偶然喫茶店で出会って親しくなったとか。

« 前の記事へ 次の記事へ »
 

このページの先頭へ

このページの先頭へ



このページの先頭へ